円空展

20240322 あべのハルカス美術館

 

 

これは、作りこんだ粗雑さや荒々しさではなく、「まあ、こんなもんで…。」という手放しのそれである。その辺に転がっている木っ端に、小刀でちょっと切り込みを入れただけの仏像や、木肌の荒々しさはそのままに、そこにごく簡単に顔を彫っただけの仏像。ここまで手を放してもみれるものはみれるのだという円空の潔さに、なにか励ましのようなものを感じる。自分の欲望のままに自然をつくりかえるのではなく、自然に「少し場所を借ります」といった程度。もちろん、仏の全身を彫っているものもあるのだが、感じ入ったのは、そういう、ごく簡単に手を加えた仏像だった。(上の写真は、文章の仏像とは別物。写真撮影禁止エリアにあった仏像のため撮影できず) 

手放すこと、適当さというのは、なかなか難しい。培ってきた技術・感性・才能をみせたい、世に名を馳せたいという欲望・欲求が邪魔をして、それをさせないからだ。簡単なことのように思えるが、他の誘惑を切り捨て、自らが選んだそれに全身全霊をかけてきた人間であればあるほど難しい。円空も仏師として全身全霊をかけていたであろうが、己の欲望を手放せたのは、何故だろうか?やはり僧であったからだろうか?  

手を放していく傾向は、歳を重ねるごとに顕著になっていく。ここままいくと晩年の作品は、どうなってしまうのだろうか?もはや木すらも置いていない空間を、「仏」としていたりするのではないだろうか?などと期待をしながら、晩年の作品の展示エリアに入る。当然ながら、晩年の作品も「仏像」としてあったのだが、残念に思ったのは、それらの仏像にゆるみが見られたことだった。丸みを帯びている。手放した中にもあった緊張感や厳しさ、自ら作り上げたであろう規律が無くなっている。歳をとり、自身の人生を肯定したためだろうか?人生の終盤に、心の平穏を得たためだろうか?作品がほっこりして、今までの良さが失われてしまっている。 

あそこまで欲望を手放し続けてきた円空でさえも、晩年には、自らを律する強さを失ってしまう。僧として、心の平穏を得ることは良いことなのであろうが、仏師としては、平穏の希求と尽きぬことのない欲望とのせめぎあいの中で仏像を彫ってほしかった。だが、もし老いが自分の気付かないところで、緊張感や厳しさ、自らが作り上げた規律をも奪ってしまうのだとしたら、もはや自分ではどうすることもできないだろう。そのとき作り手は、何をすべきなのだろうか?